「自分らしい支援」という言葉が、どうしても苦手。

「自分らしい支援」という言葉が、どうしても苦手。

「憧れの人」を聞かれたら、山里亮太と答える。

南海キャンディーズの山ちゃん、と言った方が分かりやすいだろうか。

日本中に衝撃を与えた、蒼井優との結婚記者会見。

終盤で蒼井さんから出た、「山里さんの仕事に対する姿勢を本当に尊敬しています」の言葉。

私は山里さんにお会いしたことも直接話したこともない。

しかし、なぜだろう。

彼がパーソナリティを勤めるラジオ番組『山里亮太の不毛な議論』や、著書『天才はあきらめた』から伝わってくる山里さんのイメージから、蒼井さんのひと言に納得した。

彼の妬み嫉み、卑屈をイメージさせるような芸風は賛否が分かれるだろう。しかし、その裏に隠された、自分の醜い感情や過去の暴挙を万人にさらけ出し自分と向き合う強さ、そして「お笑い」というものに真摯に向き合う姿に、本当に胸を打たれる。

彼のしゃべりを聞いて、自分の狡さ、卑怯さ、浅はかさ、卑屈さといったマイナスの部分と向き合えるようになった。

また、自分に期待せず楽に考えられるようになった。いい意味で自分をあきらめることができた。

彼は、私の人生に大きな影響を与えた人間だ。

Advertisement

とはいえ、自分では気にしていないが周りから考え方が卑屈で指摘されることがある。

その私の卑屈な考えの例として、下記ツイートを参照していただきたい。

これを見ていただいて分かるだろう。

私は「自分らしさ」を押し出してくる人間が苦手である。

よくこの話をすると「無個性がいいってことかよ」と言われるが、そういうことではない。

むしろ個性があることは、よいことである。

私が言いたいのは、自分が自覚している個性を「自分らしさ」という言葉を使って前面に押し出してくる行為が苦手だ、という話なのだ。

Advertisement

先ほども話したように、「個性」は大切なことである。

自分の個性を意識することは、他者との違いに気づきやすくなり自己覚知を促す。また、相手のことを知ろうとするときに、その相手が感じている個性を知ることは重要である。

また、自分のことを知ってもらいたい時に、自分の個性を伝えることは関係構築に欠かせない。

しかし、個性の一つひとつをコミュニケーションの中で丁寧に感じ取るわけでもなく、「自分らしさ」という本人にしか分からない抽象的な表現を一方的に押しつけることが、良いことだとは思えない。

例として、「自分らしい仕事ができない」といった発言を挙げたい。みなさんはこの言葉をどのように感じるだろうか。

私は、「なぜ、あなたの自分らしさに需要があることを前提で話をしているんだろう」と考えてしまう。

別に自分らしくなくても仕事や支援はできる。それでもそこに自分らしさを求めようとする行為の根源。

それは「自分が好きなように、思うように仕事をしたいのにできない」という不満であって、それを「自分らしく」という言葉をもっともらしく使って正当化を図っているだけなのではないか。

本人が自発的に口にする「自分らしさ」は多くの場面で、言い訳に用いられている。

Advertisement

同様の理由で、福祉職の支援者が口にする「自分らしい支援」という言葉は警戒している。

私は「自分らしい支援」という言葉を耳にした時には、「個人的価値を優先した支援」という言葉に置き換えるようにしている。

支援に支援者自身の「自分らしさ」を主張し持ち込まなければいけない場面というのは、支援者が相手の話に耳を傾ける姿勢になっていないと推察する。その状況は、支援場面で必要なのであろうか。

と、言ったように別に考えなくてもいいことをくどくどと考えてしまう。

それだけ、自分自身の「自分らしさ」にコンプレックスを感じている裏返しなのかもしれない。

いい加減、「自分らしさ」を軽々しく周りに押し付けてキラキラ輝きながら働く方々を、すんなり受け入れられるだけの度量が欲しい31歳男性であった。

支援カテゴリの最新記事