「なんでも知ってるように振舞う人」が嫌いな私 いつも心に「不知の自覚」

「なんでも知ってるように振舞う人」が嫌いな私 いつも心に「不知の自覚」

「なんでも知っているように振舞う人」が嫌い。

「なんでも知っているように振舞う人」って、遠回しに「あなたより知っている」ことを主張して、自分が相手より優位だと思い込まないと安心して生活できないのだろう。

私は無知なので、よく質問をする。

「なんでも知ってるように振舞う人」は、それに関連する話をだらだらだらだら喋った挙句に、こっちが質問した内容からズレた解答をする。

自分の知識量を見せつけたいあまりに、人の話を聞いていないのだろう。

「なんでも知っているように振舞う人」は、「自分が物知りだって思わせることができた!」と、満足げな様子。

こっちは、時間の無駄だったと、げんなりする。

Advertisement

私は福祉の世界で働いている。

このしごとをしていると、「なんでも知っているように振舞う人」がよく目につく。

「なんでも知っているように振舞う人」は、過去の経験から「一般企業と違って福祉はぬるい」なんて話をする。

「なんでも知っているように振舞う人」は、自分の経験から「こういう時はこういう支援をすべき」なんて言う。

「なんでも知っているように振舞う人」は、利用者に「あなたのことはよくわかる」とか「わたしが~だったから、~するべき」なんていう。

実は「なんでも知っているように振舞う人」が「知らないこと」がある。

「なんでも知っているように振舞う人」は、自分の経験が自分で思っているほど世の中の役に立っていないことを知らない。

「なんでも知っているように振舞う人」は、求めてもいない知識を一方的に押し付けられると人間は不快になるということを知らない。

「なんでも知っているように振舞う人」は、利用者が本当は自分の話を聞いてほしいのに、それを我慢して話を嫌々聞いてやっていることを知らない。

Advertisement

でも、「なんでも知っているように振舞う人」は、これらのことを知らないから「なんでも知っているように振舞う人」なのだ。

つまり、「なんでも知っているように振舞う人」は「賢い人」ではない。

遠い昔、ソクラテスという人がおりまして。

神様から「お前が一番賢い」というお告げをいただいたのに、自分が無知だと思っていたから納得できなかった。

なので、自分が賢くないことを自分自身で証明するために、賢者と言われる人たちにわざわざ会いにいって教えを乞いました。

彼は、賢者に会うたびに分からないことを「なぜ?」「どうして?」と聞き続けた。結果、「なんでも知っている」という賢者でも答えることに矛盾があったり、答えられなかったり。

そんな様子を見て、ソクラテスは「みんな知っているように振舞っているけど、本当のことは知らない」ことに気づいた。

一方で、「みんなが知っているように振舞っている中で、自分は知らないことを自覚していた」という自分と賢者の違いに気づく。

そうしてソクラテスは「知らない」ことを自覚して、「知る」ことを追求する姿勢の重要性を訴えるのである。いわゆる、「不知の自覚」である。

まぁ、この後賢者達を質問攻めにしたせいで死刑にされるのだけど。

Advertisement

福祉の世界の話に戻ろう。

福祉専門職の専門性は、「価値・知識・技術」でつくられていると言われている。

その中の、福祉専門職の「価値」を身につけるための重要なものとして「自己覚知」というものがある。

自己覚知は、自分を客観的にとらえ、自分をよく把握し、知ることです。

自己覚知ができていない支援者は、自分の支援が「自分の個人的な価値によるもの」なのか「福祉専門職の価値によるもの」なのかを見極めることができず、押し付けがましい独善的な支援を展開してしまいやすい。

この「自己覚知」と「不知の自覚」は密接に関わっていると考えている。

自分は知っている、理解している、分かっていると捉えて支援をすること。それは果たして本当に知っていて、理解していて、分かっているのだろうか。

「本当は知らないかもしれない。」

そのように、ひとつひとつを丁寧に疑い、丁寧に紐解き、相手と関わっていくことで、信頼関係ができていくものだと信じている。

私の中にいる、「なんでも知っているように振舞う人」への自戒を込めて。

Uncategorizedカテゴリの最新記事