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障害者雇用水増し たった1つの大きな課題

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最近、テレビを賑やかしている「障害者雇用水増し問題」。

簡単に説明すると、中央省庁を中心とする行政各所で、障害者雇用について事実に基づかない報告が行われていた。つまりは、実際よりも雇っている障がい者の数を水増しして報告していた(中には、少なく報告してしまっていたところもある)。

メディアを中心とする世論の反応は、「模範となるべき中央省庁がこんなことをするなんて許せない」または、「水増しによって障害者の労働の機会が奪われた」というものが主。

でも僕は、この障害者雇用水増し問題は、障害者福祉のもっと根本的な問題をつきつけられている気がするんだ。今日は、僕が感じている違和感を麦焼酎を飲みながら自由に語りたい。

もちろん、意見や感想があればコメントが欲しいです。日々勉強です。

 

障害者雇用水増し問題の簡単な背景

今回、障害者雇用の水増しが起こった背景を考えてみよう。簡単に言えば、

 

①国、地方公共団体、事業主には障害者を雇うルールがある

②障害者を雇うルールが守られなかった 

 

この2つ。たったこの2つの出来事が今回の大きな問題を引き起こした。

日本には「障害者雇用促進法」といって、障がいのあるなしに関わらず地域で働くことができるようにするための法律がある。この中に「法定雇用率」というものがあって、国や地方公共団体、そして一定規模以上の企業に対して、全従業員数に対して一定の割合で障がい者を雇うように決めている。

 

www.aafukushi.net

 

今回の「障害者雇用水増し問題」は「法定雇用率」を守っているように見せるために、本当は障害者を雇用していないのに、雇用していることにして嘘の報告をしていたってこと。内容は簡単なんだけど、この中には複雑な問題が含まれている。

 

国・地方公共団体が障害者雇用を行わない恐ろしさ

 

メディアを中心とする世論の反応は、「模範となるべき中央省庁がこんなことをするなんて許せない」または、「水増しによって障害者の労働の機会が奪われた」というものが主。

 

この記事の最初で、こんなことを言いました。

でも、本当の問題はもっと根柢のところにあるような気がするんです。それが、「障害者雇用は法定雇用率を達成するためだけのもの」になっていることなんです。

障害者雇用のゴールは、「国や地方公共団体、事業主が法定雇用を達成すること」ではない。「障がいを抱える方が差別されることなく、地域の一員として働くことができる社会の実現」だったはずなんです。 

今回の中央省庁の障害者雇用水増しは、要するに国の「障がい者の地域生活実現への関心の薄さ」を示していて、国は立派なことをいろいろ言うけど本心は「まぁ、障がい者の地域生活が叶わないのはやむを得ないよね」と感じていることが露呈されたってことなんだと思う。

 

日本の障害者雇用は、拘束だけで理念がない

日本の障害者雇用は、障害者雇用促進法の法的拘束力はあるけど、その最低限の達成でひぃひぃ言っている現状である。なんなら、国は達成すらしていない。

この状況だけで分かる。法的拘束力にしか基づかない障害者雇用なんて、いやいや障害者を雇用する風潮を育んでいくだけ。法定雇用率が上がれば上がるほど、障害者へ不満のまなざしが向けられるんじゃないかとすら思う。

だって日本には、「少数派を排除する文化」が根付いているんだもん。そんな国で障害者雇用を法的拘束力だけでやりましょうなんて、無理に決まっている。

本当に必要なのは、「少数派を排除する文化」の解体であり、差別・偏見の破壊だったり、多様性の享受なんだと思う。

しかし、日本という国の国民は本当に幸せらしく、その「少数派を排除する文化」に気づかない。気づかないで排除しているという恐ろしい国民性を発揮している。その最たるが、今回の「障害者雇用水増し問題」なんだ。

 

だからって、なにかしろというわけじゃないけど

「日本は素晴らしい国」みたいに言っている日本人は多いけど、本当にそうかな?

今の障がい者の処遇、男尊女卑、先日の日本体操協会のニュースから見える児童虐待。日本って国は、本当に権利意識が薄い国民性があるんだと感じている。

少数派を尊重せず、多数派を作っては少数派を非難し、自分がいかにも優れているように錯覚して人生を過ごす。そんなくだらない文化の中で「日本人は素晴らしい」なんて、本当に笑える。笑い飯の「奈良歴史民俗博物館」とかチュートリアルの「チリンチリン」より、よっぽど笑える。

そういった国の性質を見直すことなしで、法定雇用率の達成だけを求めることは、果たして健全と言えるのかな?そんなことを考えてしまう。