結局福祉ってよく分かんねぇや

福祉は自分で定義するものらしい

結局福祉ってよくわかんねぇや

【私見】私の援助の根底にあるもの

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 私の援助観の根底にあるのは、これまでの生活の中で他者に傷つけられ、また自分自身を傷つけてきた当事者を、これ以上傷つけないという思いである。

 援助を求める当事者は、少なからず生活の中で困り、悩み、苦しみ、悲しみを抱いている。しかし社会は、そんな当事者に対し厳しい一面を見せる。社会に適応できなかった当事者自身の自己責任とばかりに、当事者を批判・批難し、自己肯定感を奪い、自尊心を低下させる。当事者は自分らしく生きることを社会に阻害され、苦悩の連鎖の中に陥る。ソーシャルワーカーは、その専門性を持って社会的抑圧による権利の制限と対峙し、当事者主体の生活を実現する援助が求められると言えよう。

 私の「当事者を傷つけない」という根柢の思いは、日々の援助に関わる疑問をひとつひとつ丁寧に解きほぐし、学びによって価値や知識を得ることで生まれた感情である。特にソーシャルワークへの学びを志すきっかけとなった疑問が「援助に怒りは必要か」であった。

 相談援助を担当していた当時に、私との約束を守れない当事者がいた。その当事者と私との関係性を見かねた同僚が「怒った方がいい。怒るべきだ。」と私に助言したことがあった。私はその時に、その助言をすぐに受け入れることができなかった。その助言が自分の思いとは合わないと分かりつつも、なぜ受け入れることができないのか、その理由を表現することができなかった。

 しかし、ソーシャルワーカーの価値と知識を学んだ後で、当事者は約束を「守らない」のではなく「守れない」状況にあることとその背景にに着目し、当事者自身ではなくその周りをとりまく環境を視野に入れてアプローチする必要があること、そして当事者への怒りをもって行動を変えさせる行為は、援助者本位の行為を目的とした独善的なものに他ならないこと、また適切な援助関係の形成を阻害するものということに「気づく」ことができた。

 この経験から主に2つの教訓を得た。1つが援助者は自分が気づかない中でも当事者主体というソーシャルワーカーの価値とはかけ離れた独善的援助を展開している恐れがあることであり、他方はそれを防ぐためには日々の援助に常に疑問を持ち気づきを得る「自己覚知」と、その自己覚知からより専門的な価値・知識・技術を得るプロセスが重要であることである。このようなプロセスを社会学者である竹端寛は「学びの渦」として、著書で以下のように表現している。

 「『自分の間違いに気づいたら、直ちにそれを受け入れ、更に自分の行動を改める』という『学びの回路』を自らに開いている人は、『仁』の状態にある人である。この『仁』を持つ人びとが交わると、『和して同ぜず』という状態が出来上がる。それは、『同じ何かを共有している』と思い込んで、相手を決めつける・自分自身がそこから動かない状態とは違い、相手の『投げかけるメッセージ』を『心から受け止めて自己を変革』しようとする『相違を原動力として進む』『動的な調和』状態である。この『動的な調和』状態から新たな何かが『創発』されること、それが『学びの渦』によって生じる何か、である。」

 困り、悩み、苦しみ、悲しみの中を生きる当事者に対し、ソーシャルワーカーは自分の価値判断によってその人の生活を断定する存在であってはならない。その行為は当事者の自己効力感や自己肯定感を低下させ、当事者の思いの発信や自己選択・自己決定への自信も喪失させてしまう。また、そのソーシャルワーカーの断定によって決定した選択に報いるのは、最終的にソーシャルワーカー自身なのである。

 ソーシャルワーカーは日々刻々と変化する社会の中で、同時に変化し続ける当事者の思いを当事者主体の立場となって受け止めることから全てが始まる。そうして生まれる当事者との関わりの中で、ソーシャルワーカーは自己覚知を得つつ学びの渦の中へ身を投じることで、価値・知識・技術を研鑽し専門性を高め適切な援助を行うことができるといえよう。

 これまで、自らの「援助」観として、当事者主体の実現の根底としての「これ以上当事者を傷つけない」という思いと、その実現のために必要な自己覚知と自己覚知からソーシャルワーカーの専門性の向上の必要性について論じた。

 ソーシャルワーカーは、当事者の個性を尊重し、その自己選択・自己決定を促し、本人の希望する生活の実現に向けて当事者と共に歩む存在である。そのために、当事者の背景までイメージし、理解し、受容する姿勢を学び得ることが必要であると考える

 

(引用・参考文献)
竹端寛著『枠組み外しの旅―― 「個性化」が変える福祉社会』 青灯社,2012年